[book]町田康『告白』

 

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

 

今頃ようやくもようやく、という感じだけれど、町田康『告白』を読んだ。『ギケイキ』は読んでいたから順番が逆という感じがする。

本文842ページをあっという間に読むことができる文体の妙味、物語のおもしろさ…というのは色々な人から聞いていて、実際その通りだった。

熊太郎への「あかんではないか」というツッコミは、作者の声とも世間の声とも亡霊となった熊太郎自身の声ともとれる。思弁的で思った通りのことが言葉にならない熊太郎は生涯をずっとツッコミ(という理解者)不在のままボケ倒して十人殺しに至ってしまったともいえて、この「あかんではないか」は鎮魂の言葉にも思えてくる。

熊太郎の宿敵である熊次郎は史実通りの名前だけれど、熊太郎・熊次郎と名前が類似しているのがおのおののエゴの反転のようで興味深い。名前の類似から逆算する形で、熊次郎と瓜二つの「森の小鬼」という熊太郎の影のようなキャラクターが生まれたのだろうか。

[book]川上未映子『シャンデリア』

 シャンデリア (Kindle Single)

読み終わって思わず泣いてしまう、と同時にあまりに見事でため息が出るような短編。

お金という、冗談のようなものが遠因となって引き離されてしまった主人公と母。母が亡くなってから冗談みたいに転がり込んできて、増え続ける大金。主人公はトム・フォード、スリー、ナーズ、ドルチェ&ガッバーナ、シャネル、フェンディといったブランドが綺羅星のように散りばめられ、シャンデリアが頭上に輝くデパートという悪い冗談の中で生かされ続けている。主人公がデパートで毎日のように高級ブランドで買い物を続けるのは、冗談の中で生き続けることへの無気力な復讐のようでも自傷のようでもある。

(しかしこのブランド名の2010年代的なチョイス、買い物描写が素晴らしく、リアルに買い物しまくって、その楽しみも倦怠も経験した人のそれという感じ)

死んでしまった母親、全身にハイブランドをまとった老婆、タクシー運転手の母親、この小説には3人の母親が出てくる。老婆は自分の母親をまるきり反転したような存在である。タクシー運転手と母親の関係は失われてしまった憧憬そのものだ。

主人公の母に対する気持ちは一言も書かれていないにもかかわらず、この小説は母を失うという不条理に引きちぎれそうな姿、母を恋い慕い続ける姿を描いていて、私はやはり泣いてしまう。

[book]『リラとわたし ナポリの物語1』

 

リラとわたし (ナポリの物語(1))

リラとわたし (ナポリの物語(1))

 

ある人がこの本を夢中になって読んだ、とブログに書いていて手に取った。

こういう小説が出ていたことは知っていたけれど、装丁の雰囲気からすっかりYA小説だと思い込み、自分は対象年齢から外れているものだと思っていた。ところが、その人のブログの紹介とあわせて、エリザベス・ストラウト推薦の文字を見て、あ、そういう本なんだ、となる。

冒頭、少女時代の回想がやや長くて、おもしろいけれどよくある感じかな…と思いきや、思春期の回想に差し掛かる前後くらいから俄然エンジンがかかってくる。

その日暮らしの貧しさ、暴力沙汰の絶えなさ、積年の恨みごと…といった土着的なものがさまざまに充満しているナポリのとある地区、そこに生まれ育つ「私」と親友リラという才気煥発な二人の少女。

この場所では女子どもに自由はない。例えば、妹がよその男から色目を使われると兄が殴りつけて屈辱を晴らそうとする、ということが頻繁に行われている。つまり女子どもの権利は法律により守られるものではなく、家族の男たちに(半ば所有物として)保護されたり、結婚で譲渡されたりする存在とされている。

「私」とリラは勉学の才や想像力、胆力、魅力など、持てるものを駆使して、この場所からどう抜け出すか、あるいは世界を再構築してどう自由になるか、ということを半ば無意識的に模索し続ける。

二人の関係は愛情や反発、競争や憧れ、失望といったものにたえず形を変え続ける。そういう関係を「百合」と表現する人もいるかもしれないけれども、どこか相手を出し抜きたがるような、甘さを突き放すような荒々しさがある。二人が成長するにつれ、近づいたり離れたりを繰り返しながら関係がより複雑になっていき、目が離せなくなる。

後半を一気読みして、さあここからどうなる、というところで一巻が終わって、なんと上手い…と思った。